日米安保50年 ミサワ闇に光を 機密資料から


第一部・核の季節の再来  第二部・終わりなき情報戦争

2001年9月14日(金) 第一部・核の季節の再来 (5)
沖縄の悲しみ/“標的”にされる絶望感

 これまで、米海軍の「核」について紹介してきた。ところが、機密文書を調べている
うちに、一九六〇年代に三沢に駐留した空軍(第三九航空師団)の意外な過去に行き当
たった。それは冷戦時代、はるか南の沖縄から北京に照準を定めていた中距離核ミサイ
ル「メースB」の配備に深くかかわっていたという知られざる事実である。

 「これです。これがメースBの発射台です」

 一・五メートルの分厚いコンクリートにくるまれたシェルターの中に、案内役の聖教
新聞社沖縄支局長、仲間理(おさむ)氏の声が響いた。外の気温は三五度。真夏の沖縄
とは思えないほど、ヒンヤリとした空気が辺りを包む。

 那覇市から北東へ車で一時間半の恩納村。東シナ海を見下ろすギンネム林の中に、か
つての「核要塞」はあった。入り口を見上げるように造られた二〇度ほどのスロープ
が、そのままミサイルの発射台になったという。

 正式名称は「サイト(発射台)4」。その名で分かるように、米空軍はメースBを恩
納はじめ、読谷、勝連、金武村の四カ所に配備した。機密資料によると、その数は最終
的に六十基に上った。六一年二月のことだ。

 飛行機のように翼を持った全長十三メートルのミサイル本体には一メガトンの核弾頭
が組み込まれていた。射程は二千二百キロ。「目標は北京」と沖縄のだれもがうわさし
ていたが、そのうわさは事実だった。

 当時、沖縄は米軍の施政下にあり、核の持ち込みは自由だった。しかし、寝耳に水と
いえるメースBの配備は、沖縄の人々に悲しみに似た複雑な感情をもたらした。沖縄出
身の仲間氏は言う。

 「北京を狙うことは、こちらも標的にされているということ。だれもがそれを自覚し
ていました。小さな島ですからね。どこへも逃げ出せないという絶望感がありました。
七〇年の撤去までその苦しみは続きました」

 米中緊張の産物である核の要塞にも三沢はかかわっていた。第三九航空師団の部隊史
は記す。

 「三機のF100D(戦闘機)がグアム島でのハッピー・アワー・プロジェクトに参
加するため三沢を離れた。…プロジェクトの目的はTM61Cミサイルの発射と制御な
ど。…射撃場では追跡機としての行動を命じられた。…すべての発射ミサイルを追い、
飛行を記録した。…制御信号に答えなかったミサイル二発の破壊に成功した」

 日付は六一年一月で、メースBが沖縄に運び込まれる前月。「TM61C」はメースB
の原形となった旧型の「マタドール」ミサイルを示す。

 この記述について、沖縄タイムス元記者で軍事ジャーナリストの国吉永啓氏は「メー
スBの沖縄配備を前提とした最終的な取り扱い訓練ではないか」と分析。さらに「メー
スB配備は三沢を含む在日米空軍全体の問題でした。だから、訓練には三沢もかかわっ
たのでしょう。グアムでミサイル本体への核弾頭装着から発射までの一連の実射訓練を
行っていたのが見て取れます」と語った。

 三沢が担当したのはミサイルの飛行監視と破壊。それは、いつの日か三沢に襲い来る
であろう敵ミサイルの迎撃訓練も兼ねた。沖縄の悲しみは「ミサワの悲しみ」でもあっ
た。

 沖縄を訪ねた六日後、北京郊外にある中国空軍の滑走路に立った。広大な基地内の山
中には、米国の核攻撃から首都防空機を守るために造られた地下格納庫があった。メー
スBがここを狙っていた…。そう考えると奇妙な気分に襲われた。

 現在、この基地は軍事博物館に、そして、恩納村のメースB発射台は創価学会の研修
施設へそれぞれ姿を変えている。冷戦の亡霊たちは時の流れの中に沈もうとしていた。
ゆっくりと、静かに。

2001年9月13日(木) 第一部・核の季節の再来 (4)
封印された投下訓練/ソ連にらみ核戦術転換

 一九九九年、米軍三沢基地の核問題の取材で米国を訪れた時のことだ。五〇−六〇年
代に三沢に勤務した元戦闘機パイロットたちは、口々に遠くを見詰めるようにこう証言
した。

 「天ケ森射爆場では連日のように核投下訓練を行いました。それは、爆弾を抱えたま
ま、空中で三六〇度のターンをする危険極まりないものでした」。「あまりの激しさ
に、実戦を上回るほど死者が続出しました。人生の中で、つらく厳しい経験の一つでし
た」と。

 三沢に駐留した米空軍は、五〇年代前半から最後の実戦部隊が韓国へ去る七一年ま
で、二十年近くにわたって、実戦さながらの核投下訓練を繰り返した。

 しかし、不思議なことに、今回入手した海軍の機密文書からは空母「ミッドウェー」
の艦載機が天ケ森射爆場で核投下訓練を行ったという確証はつかめなかった。言い換え
れば、海軍は三沢での核訓練を避けていた−ともみられる。

 機密文書によると、七三年に三沢に初飛来した第九三攻撃飛行隊は、五−十二月の八
カ月間に二百三十二発に上る核模擬弾を消費している。

 だが、その投下場所はカリフォルニア、ハワイ沖など米国内に集中している。意図的
に三沢を避けているのである。

 それは艦載機に続いて七五年から配備が始まった対潜哨戒機P3Cの哨戒飛行隊も同
じだ。同部隊はカリフォルニア州モフェツト・フィールド基地から六カ月ごとのローテ
ーション配備だったが、核任務部隊に付きもののNTPI(核技術熟練度査察)を三沢
では決して行わなかった。艦載機の投下訓練と同様、NTPIについては三沢へ展開す
る前後に慌ただしく行った。

 この動きに何をみるか。

 核問題研究の第一人者である新原昭治氏(東京都東村山市)は「当時、ミッドウェー
と艦載機は核反対運動の標的とされ、行動のすべてが注目を集めていました。いわば、
政治問題の一つとなっていたのです。それはP3Cも同じこと。そのため、六〇年代ほ
どおおっぴらに核訓練を日本でやれなくなったのでしょう。世論に配慮した結果ともい
えます」と分析する。

 さらに、新原氏は「日米政府間で、ある時から天ケ森射爆場では核模擬弾を落とさな
いというラインが引かれたのかもしれない」と推測する。

 理由の一つに核戦術の転換を挙げるのは、軍事評論家で東京国際大教授の前田哲男氏
(埼玉県上福岡市)だ。攻撃対象が飛行場などの陸上施設から戦略型原潜や水上艦など
に移ったのだ−と。

 前田氏は「七一年の米中国交回復に伴って、三沢など在日米軍基地の矛先は、急速に
極東ソ連軍へ転換しました。中でも、主目標としたのは核ミサイル搭載の戦略型原潜を
抱えた海軍。必然的に、陸上施設を狙う空軍型の核訓練を行う意味が薄れ、天ケ森射爆
場は使われなくなったのでは」と語る。

 では、七三年のミッドウェーの横須賀母港化に伴って、三沢に展開した米海軍艦載機
と対潜哨戒機の核任務はいつまで続いたのだろうか。それは、東西冷戦体制崩壊後の九
二年という見方が専門家の間では支配的だ。

 その年、ブッシュ米大統領は水上艦艇をはじめとした前線部隊から戦術核の撤去終了
を発表した。旧ソ連をターゲットとした戦術核爆弾はもう使うことがあるまい、と考え
たのである。「冷戦終結」という歴史的事実は、それほどのインパクトを持っていた。

 約四十年にわたった「核の季節」は、冷戦終結とともに静かにミサワ(三沢)という
北の地から去った。しかし、それは同じ年月分だけ、ミサワが核の標的になっていたこ
とを意味した。あまりに長く、そして危険な季節だった。

2001年9月11日(火) 第一部・核の季節の再来 (3)
「狙いはオホーツク」/ソ原潜への刺客P3C

 真夏の日差しが降り注ぐ三沢基地に、ターボプロップエンジンの金属音を響かせて一
機のプロペラ機がスルリと滑り込んだ。二年前、空母「ミッドウェー」の艦載機を迎え
た時のような怒号と抗議デモはほとんどなく、基地の外はうそのように静まり返ってい
た。

 一九七五年八月十日。第四八哨戒飛行隊が三沢へ移駐した日のことだ。米海軍が西太
平洋に配備した初めての対潜哨戒機P3Cオライオンだった。「コンピューターのかた
まり」と称され、一機百億円をくだらない同機は、超経済大国の米国にとってもトラの
子の一つ。いわば秘密兵器だった。

 それを九機も…。米国のソ連に対するあからさまな意志表示だった。オホーツク海を
「核の聖域」にすることは決して許さない−という。軍事評論家で東京国際大教授の前
田哲男氏は言う。

 「七〇年代半ば以降、旧ソ連海軍は核ミサイル(SLBM)を水中で発射できる戦略
型原潜の配備を急速に進めました。ターゲットは米本土。米国にとって、国家の存亡さ
え左右しかねない新たな脅威でした。この戦略型原潜が潜んだのが、厚い氷に守られた
オホーツク海だったのです」

 オホーツク海で行動する戦略型原潜の位置をつかみ、有事にはSLBM発射前に破壊
する。その刺客役として三沢に送り込まれたのが、P3Cオライオンだった。

 同飛行隊に続いて、米本土から三沢へ六カ月のローテーション配備に就いた第五〇哨
戒飛行隊の機密文書(部隊史)が、それを裏付ける。

 「飛行隊の第一任務は空中からの対潜水艦戦闘である」(七七年)

 「飛行隊はソ連のII型原潜を探知し、位置の特定に成功した」(七六年八月)

 「II型原潜」とはデルタII級戦略型原潜と考えられる。同原潜は最大爆発力一メガト
ン(広島型原爆の約七十倍)のSSN8ミサイルを十六基搭載していた。三沢のP3C
部隊は、国家に対する脅威と日常的に対じしていた。そして、国家を守るためには核の
使用も辞さないと海の狩人たちはひそかに決意を固めていた。それを示す一文が、やは
り七七年の同飛行隊部隊史にある。

 「(a)NTPI(核技術熟練度査察)は十月十三日に行われた (b)核兵器を取
り扱うための作戦、事務、保安手順が評価された(c)加えて、三個搭載チームと三フ
ライトクルーが搭載手順と技術・知識を評価された。核能力がある飛行隊として再認定
された」

 NTPIとは前回紹介したように、核任務を与えられた部隊が義務付けられた核兵器
取り扱いのための定期検査だ。文中の「搭載」は核兵器そのものの機体への積み込みを
示す。艦載機に続いて三沢へ配備されたP3C部隊は、間違いなく「核攻撃部隊」だっ
たわけだ。

 さらに、注目されるのはNTPIが行われた場所だ。部隊史には、同飛行隊が前年に
もNTPIを受けた記述があるが、いずれも、母基地のモフェット・フィールド(カリ
フォルニア州)に展開していた時のもの。NTPIは三沢配備時を巧みに避けるように
行われていた。

 P3C配備を二年後に控えた七三年三月。三沢市議会は、同機について興味深い調査
結果をまとめた。この中で、保守系議員(六人)が「核装備できないし、危険性はな
い」としたのに対して、革新系議員(三人)は「核装備ができる機能を有し、戦争が起
これば攻撃目標になる」と全く異なる内容を提出した。

 どちらが正しかったのか?二十八年後の今、後者に軍配が上がることは言うまでもな
い。

2001年9月9日(日) 第一部・核の季節の再来 (2)
ミッドウェーの疑惑/「核攻撃」日常的に訓練

 空母「ミッドウェー」の横須賀母港化に伴い、米艦載機が三沢での実戦訓練を始めた
翌年の一九七四年八月。米海軍横須賀基地内で奇妙な特別軍事法廷が開かれていた。

 弁護人「なぜ、乗艦を拒否したのか?」

 被告「ミッドウェーが核兵器を持ち込んだからです」

 弁護人「核兵器はどこにあるのか?」

 被告「緊急戦闘態勢での演習の際、私の部署は『フォックス・トロット』で、それは
後部甲板わきにあり…」

 被告がここまで言いかけた時、裁判長に当たる法務官が顔を真っ赤にして制止する
と、慌てて閉廷を宣言した。

 被告はマイク・ハモンド一等水兵。いわゆる「良心的な脱走水兵」だった。間もな
く、彼には二階級の降格と海軍からの追放という厳しい処分が下された。

 裁判長が審理を中断してまでも口止めし、世間への流布を恐れたことは何か。それは
ミッドウェーの横須賀母港化につきまとった核疑惑だった。日米安保の暗部にまで行き
着く重大な問題だった。

 「ミッドウェーが核を持ち込んでいたなら、非核三原則は有名無実ではないか」。当
時、国民のだれもがそう思っていた。ジャーナリストとして取材に当たっていた軍事評
論家で東京国際大の前田哲男教授は言う。

 「ミッドウェーが核を積んでいることは間違いないと言われていました。でも、肝心
の証拠がありませんでした」

 そんな疑惑に、ある回答を与えてくれる機密文書がある。同空母に所属し、横須賀母
港化の七三年以降、毎年のように三沢で実戦訓練を重ねた第五六攻撃飛行隊の部隊史で
ある。

 「通常演習の中で、核兵器の取り扱いに必要な正確な搭載手順の訓練に長い時間をか
けた。○○大尉らに指揮された搭載チームはNTPIを通過した」(七三年七月)

 同飛行隊が三沢に初飛来するのは同年十月。その三カ月前に、核爆弾の取り付け訓練
を日常的に行っていた様子がわずか八行の文章から読み取れる。同飛行隊にとって、核
はごく身近な存在だったのである。

 そして、気になるのは「NTPI」という単語だ。これは同飛行隊の機密文書のいた
る所に顔をのぞかせる。ベトナム戦争中にミッドウェー艦長を務めた退役海軍少将のユ
ージン・キャロル氏(ワシントン市)は本紙取材に対して「NTPIは『核技術熟練査
察』の略で、核任務部隊で実施されるものです。具体的には、核についての保管や取り
扱い、飛行機やミサイルへの搭載のスピードなど、核任務が安全かつ効率的に遂行され
る態勢にあるかどうかを調べます。核戦闘能力と核戦争遂行を有効にするものなので
す」と説明する。

 ミッドウェー艦載機には核任務が与えられ、それを運用する同空母は間違いなく核攻
撃艦だったのである。では、核弾頭そのものは積んでいたのか。

 前田教授は語る。「ミッドウェーの核は、日本政府との密約によって黙認されていた
といえます。安保下での核の聖域だったのです。ミッドウェーは、第五六攻撃飛行隊な
どの航空機の爆弾や魚雷、爆雷、対空ミサイルに装着する核弾頭を積んでいたはずで
す。その数は百発以上だったと思われます」と。

 六五年十二月、沖縄東方の太平洋で、空母「タイコンデロガ」の攻撃機がMK43戦術
核を搭載したまま、海中へ転落する重大事故「ブロークン・アロー」が発生した。

 米国がひた隠しにしたため、発覚したのは二十四年後の八九年になってからだった
が、この部隊こそ、三沢を第二のホームベースとした第五六攻撃飛行隊。そして、転落
したMK43には核弾頭が装着されていた。

2001年9月8日(土) 第一部・核の季節の再来 (1)
彼らはやって来た/「NF」マーク機 次々と

 「ゴオーーッ」。まるで、電車のガード下にいるようなごう音が辺りを襲う。頭上を
矢のような勢いで通り過ぎるジェット機。塩害防止用に白っぽい色に塗られた海軍の艦
載機が一機、また一機と機体をバンクさせると、三沢基地に吸い込まれるように消え
た。

 尾翼には空母「ミッドウェー」の所属を示す「NF」のマークがあった。「とうと
う、彼らはやって来た」。秋空に輝く機体を仰ぎ見る市民のだれもがそう思った。

 そして、次に頭をよぎったのは、騒音で泣きやまない赤ん坊、振動で揺れる食卓、眠
れない夜…といった苦痛な日々への確かな予感だった。基地のゲートでは「飛行訓練絶
対反対」「基地撤去」「安保撤廃」を訴える革新団体の横断幕が風に揺れていた。一九
七三年十月八日の昼すぎのことだ。

 その三日前、ミッドウェーは抗議デモとシュプレヒコールのあらしの中、神奈川県横
須賀に入港、米国が宿願としていた母港化を果たしていた。米空母が海外で得た初の母
港だった。寄港中、七十機に及ぶ搭載機は厚木と三沢基地で対地攻撃、夜間離着陸など
の訓練を行うことになっていた。それは取りも直さず、パイロットたちにとって、三沢
が新たなホームベースの一つになることを意味していた。

 三沢にとって、空軍の第四七五戦術戦闘航空団が基地を去って以来、二年ぶりの実戦
部隊の飛来だった。

 「市民の不安しり目に 三沢に次々と16機」。本紙は訓練初日となった十月八日の模
様をこう見出しで伝えた。しかし、この十六機の中に交じった六機の小型攻撃機に注目
する市民は多くはなかった。

 「A7AコルセアII」。実戦配備間もない新鋭機だった。

 まして、同機を装備する第五六、第九三攻撃飛行隊(各十三機)が横須賀入港までの
間、はるか太平洋上で奇妙な訓練を繰り返していたことを知る人はいなかった。

 発艦すると同時に機首が波頭を洗うような超低空を飛行。突然急上昇に移ったかと思
うと、たった一発の模擬弾を落とす−。まるで、アクロバットのようなその訓練は、核
投下をシュミレートしたものにほかならなかった。横須賀に到着するまでの間に使った
訓練用弾薬の種類と数について、第九三攻撃飛行隊の部隊史は生々しく記している。

 「<5月>MK106=135発、BDU8=1発<7月>BDU8=1発<8月>
MK104=9発、MK106=38発<9月>MK104=9発、MK106=38発、
BDU8=1発」

 MK104は広島型原爆の七十倍の最大爆発力を持つMK28戦術核の投下訓練用で、
BDU8はMK28の発展型であるMK43と同サイズの模擬弾。MK106は対潜水艦用
に海中・空中のいずれでも使えるMK105戦術核の訓練用だ。

 これらの機密資料は同飛行隊が三沢に飛来する直前の九月まで、わずか五カ月間に二
百三十二発に上る核専用の訓練弾を投下していたことを伝える。一機当たり十八発の計
算だ。さらに、第五六攻撃飛行隊は部隊史の中で自分たちの目的を簡潔明瞭に示してい
る。

 「飛行隊の任務は、通常および核兵器で空対地攻撃作戦を実施することだった」

 両飛行隊は紛れもなく“核のスペシャリスト”にほかならなかったのである。二十八
年前の秋の昼下がり。「核の季節」が再び三沢に訪れていた。


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